昭和50年11月23日 月例祭
今日は、前講を幹三郎が致しておりました。本当にあの話を頂きながら、大変私はおかげを頂きました。お話を聞く事ですけれども、それを頂くと言う所に信心があるのです。お参りをすると言う事ではなくて、お参りをさせて頂くと言う所に、おかげがあるんです。私がするのではない、させて頂くと言う所に、おかげがあると言うのです。今日は大変難しい事を申しておりました。現在の時点で私が分からせて頂いた事は、永劫普遍なもの、変わらないもの、それが二つあると思う。
それは天地の親神様、天地自然が悠久であると言う事と。親の思いというものは、いつの時代になっても変わらないものだろうと言うのです。まさしくそうです。親の思い確かに百年前でも二百年前でも、今日只今この様に時代が進歩して変って参りました時代でありましても矢張り、親の思いは同じだと思う。その無限なもの限りないもの、そういうものに触れた時に、私は愈々この世に生き抜かせて頂くと言う事を、いや生き抜かせて頂こうと言う事をまぁ心に発願した。
そう思うたという意味の事を言うております。この人は大変私共の子供の中では一番深刻派です。死ぬると言う言、生きると言う事。もう真剣に考えるらしいです。だからもうそういう意味のご本を読む事。もうこれがあの子供達の書斎がありますが、もう一杯もう殆んど幹三郎が読破した本ばっかりであります。ですから中々その深刻です。いっそ自分が死んだほうが親孝行になるのじゃなかろうか。
自分の様に何にも出来ない、心配ばかり掛ける様な者はもうこの世に生きておっても、返ってご迷惑になるのではなかろうかと、いう様な事を考えるらしいんです。深夜も夜中に時々居なくなるんです。そすと今日言っておりました様に、矢張り夜の田舎道を、こう散策する訳でしょう毎日。そう言う事を成程しておるんだなと言う事を、今日お話聞きながら思ったんです。そして天地自然の悠久さ美しさ、その偉大さに触れた時にです。その限りないものに触れた時に。
限りなく生きられるならば、その親の願いとか、天地の親神様の願いに応えて、生き抜こうと言う様な事を感じたという意味の事を申しておりました。私はその話を聞かせて頂きながら、もう大変な事を分からせて頂いた。御教えの中に「日に日に生きるが信心なり」とあります。大変難しい御理解です。何十篇説いたか分からんけれども、まだその真偽の程は私にも分からない。「日に日に生きるが信心なり」と言う事は、日に日に自分というものを空しゅうしていく。
過去の自分というものはもうないものだ。日に日に自分というものを殺していくと言う生き方こそが、日に日に生きるが、言わば信心だと言う風に頂き又説いても来ました。日私は今晩幹三郎の話を聞かせて頂きながら。日に日に生きると言う事は。成程無限のもの所謂親の思い天地の願い、天地の親神様の願いに応えていけると言う事が、成程日に日に生きるが信心だと言う事になりますまぁ私は今晩は大発見です。
日に日に生きるが信心ということは。親の願い限りない親の愛情、限りない天地の親神様の氏子信心しておかげを受けてくれと仰せられる、その親の思いに応えて生き抜こうと言うのが、日に日に生きるが信心だと言う事が分ります。素晴らしい事だなぁと思いました。はぁ息子が話しよるが、どげなこつどん言うじゃろうかと言う様な事じゃいけん。矢張りいくら息子であっても一生懸命の自分の信心を語り、最近分からせて頂いた所を語っておるのですから。
親の私とても、矢張り一生懸命頂かせて貰う。たった十分か十五分間のお話の中に、私は何十年間この御教えを思い、又説き続けても参りましたけれども。今日ほどに鮮烈に、ありありと日に日に生きるが信心なりと言う事を分からせて頂いた事は、初めてで御座いました。はっきり日に日に生きると言う事が、成程信心だと言う事が分かります。日々をです、生き抜こうと先ず思う事です。
しかもです同じ生きるならば、天地自然の願いにその願いの、もう麗しさ素晴らしさ、それを謳歌しながら、称えながら親の願いに応えて、その為に死ぬるなぞとは考えないぞ、これから本気で生きて行くぞと言う事なんです。成程日に日に生きるが信心なり。もう素晴らしいこの事だけでも今日は、私はおかげ頂いたと思う。日に日に生きると言う事はです。そういう神様の願いを受けての事でなからなければならない。
親の思いを分かってからの事でなからなければならない。そしてその思いに応えよう。せっかく生きるならば、天地の親神様のお心に添い奉る生き方。神様にお喜び頂けれる生き方をさせて頂こうと言うのが、信心だと言うのです。成程日に日に生きるが信心だという事になりますですね。限りないものへの憧れ、限りないものへの憧燃を心を燃やす。憧燃心を燃やすと言う事です。
それが信心なんです。ただ飲んで食うてという生き方では駄目なんです。神様の願い思いに応えようという生き方でなからにゃいかんのです。親の思いに添うという生き方でなからにゃいかんのです。それは親の思いは無限だから。その愛情というものは、キリがないものなんだ。それは天地の親神様の御思いに於いても、しかりであると言う事であります。そこに目覚めて生きる時に初めて、日に日に生きるが信心と言う事になるのです。今日日田の綾部さん達が、親子でお参りして見えられた。
最近縁に付かれました、静子さんと言う一番下の娘さんが、今日は日曜だからと言うので、ご主人と二人で里帰りをして来た。それでなら今からお参りしようと言うて、お参りをしてきた訳です。今度行かれた所が大変な(?)家らしいですけれども。家族が大変複雑と言うが多い訳ですね。まぁここでもの様でしょうね。私共夫婦がある長男夫婦がおる、二番目の夫婦がおる。
それにはまぁ兄弟達がまぁおるという、そう言うまぁ普通で言うならば、わずらわしい家庭であろう様に見えるのだけれども。そうではなくて言うならば一糸乱れず、何とも言えぬ雰囲気の中に、同じ屋根の下に沢山の者が住んでおる。そういうまぁ言わば家庭に行っておる訳です。この頃結婚の条件が例え長男でも、別居させて貰うならばと言った様なのが多い中にです。
そういう中に好んで行った訳ではないけれども、そう言う事になっておる。今まであったお家売りの一軒を、幾部屋かをまぁ新婦のための部屋に改装されたと言うのですから。まぁ大変大きなお家らしいです。それでね言うならば主人一人から愛されるよりも、十人なら十人から愛された方が有難い。それにはね中心である静子さんあぁた自身が。言うなら、愛される人にならなければいけません。
その為にはねどういう信心にならせて頂いたら良いかと言うと、私がお取次ぎさせて頂いておりましたらお知らせにね、あの寛大の寛という字を頂きました。ひろしとも申します。ウ冠そして草冠、そして見ると書いてあります。見る聞くの見る。ウ冠草冠そして見るです。それで私は御神米にその事を書き下げてやりました。静子さんこの生き方で行く事なんだ。自分の心が愈々広く大きくなる事なんだけれども、それはねあぁたの前に起きて来る、周辺に起きて来るその全てが、ウ冠と言う事は宇宙と言う事。
言うならば天地の親神様と言う事、ウ冠は宇宙の宇である。その親神様があなたに、よりおかげを下さろうとする働きが、苦しい事やら面白い事やら、悲しい事やら腹の立つ事やら様々ある訳です。けれども一切それが、神様のお指し向けだと。ウ冠に草冠が出ております。その草冠と言うのは自然ということである。自然の働き、宇宙の天地の親神様の働きというものがです。あなたの前に起きて来る、その全てであるからそれをね。言うならこの広い心で見る事だと。
どう言う事でもそういう言うなら、これが神様の私に求め給う場合には、修行でありお恵みであると思うて、寛大な心広い心で受けていく、又それを見ていくという見方。そういう生き方こそ、もう周囲の全ての人から愛される事になるだろう。一人から愛されるよりも、家族中の者から愛された。もう家の嫁御は本当に有難いと言うて、褒められたり称えられたりする方が良いじゃないか。
私はね今日幹三郎の話を頂いて、限りないものへの憧れ、限りないものへの憧燃心という、この心が生まれて来る時に、限りない天地の親神様の願いが、ここに現れる。それをそれこそ有難し、勿体なしで合掌して受けていくと言う事こそ、本当の生き方だと思うです。昨日今日頂かせて頂きます。信心をさせて頂く者は、御神徳を頂かねばならぬ。はぁ御神徳などと言うのはとてもそんなに。誰でもが頂けるもんじゃない。信心をすれば誰でも受ける事が出来る。それが神徳じゃ。みてると言う事がない。
今日の御理解第二節がそうです。信心をすればあの世にも持って行け、この世にも残しておけるものは神徳じゃ。その神徳は信心をすれば、誰でも受ける事が出来る。しかもみてると言う事がない。限りないと言う事です。そういう限りないものへの憧燃の心を燃やすのが、私は御道の信心だと思う。そして限りない言うなら、おかげを頂き続けると言う事が、神様のまた願いでもあり私共の願いでも又なからなければならんと思います。目先の唯目先目先の事が成就した。
成就しなかったと言うて一喜一憂しておる様な信心ではいけないと言うのです。そこで、神徳を受けると言う事は、大変に難しい様に思うけれども。合楽にご神縁を頂いた方達はもうその場から、御神徳を受けて行く事が出来ると言うのです。それを私はただおかげを受けるというふうに、今まで思うておった。だから神徳を受けると言う事は銘々が、矢張り神徳を受ける、特別な修行でもしなければならない様に思うておった。そうではない。お取次ぎを頂いて。
まぁ例えて申しますと昨日、今日壱岐の末永先生所の秋の御大祭である。それで先日から、電話がかかって来ておりましたから、末永先生が昨日から行っております。先日から四五日前の朝の御理解のなかに、その事をちょっと話した。親子三人で今度は行く様になっておった。所がお許しを頂いたけれども、心に引っ掛る事がある。親先生にはまぁだ信太郎が生まれて一回も、親の元に帰っていないから、一遍親に信太郎を見せたいと言う、と言うお届けをした。
所が実際は家の親はそんな、孫の顔見て喜ぶと言う様な親ではない。ただ最愛の家内に沢山、新鮮な魚を食べさせたいと言うのが願いであった。その事を私に言わじゃった。もう公子がもう、とても魚好きで御座いますから。そら後からのお届けでした。だから新鮮な魚が沢山取れる訳ですね、壱岐ですから。それでその新鮮な魚を、最愛の家内に腹いっぱい食べさせようと言うのが、お前も今度一緒に連れて行こうと言う事になっとったけれども、私には信太郎ば連れて行くと。けれども本当におかげ頂いて良か。
昨日用事があったから、公子さんが電話を架けた。そしたら「はいはい、合楽教会で御座います」ち言うたげな。何時もそげん言うて電話を受けよるもんじゃから。壱岐の教会へ行っとったっちゃ「はいはい、合楽教会で御座います」合楽教会ち、合楽教会から架けよるとですち、あぁそうじゃったち、はっはははは(一同笑い)ね。そんな話を私御理解の中でしとりましたもんですから。
ご信者さん方がもうあの、先生がお帰りになるならば、お供えに持って行って下さいと言うて、それこそわざわざ漬物を漬けたり、白菜を壱岐には野菜がないそうだからと言うて、もうそれこそもう一杯、もうそげんどげんして持って行くのち言う。そしたら又その話を聞いて、あくる朝そこの田中さんが、ほんならもう持って行くついでに、いっちょみかんも一箱持って行って下さいち、大きな箱のみかんを一箱持って来なさったそうです。だからもうそれは、もう大変な荷物でしたけれども。
あちらへ梶原君か誰かが、船の所まで送って行った訳です。そして昨日その電話でです。もうお繰り合わせを頂いてから、お前は向こうのご信者さんが、丁度自分ば迎えに来て貰うとる様に来て頂いておった。と言うのはその信者さんは、娘さんを迎えに来とったっじゃったげな。それにちょうど乗せて頂いて、沢山な荷物も一つもまぁまぁ苦にならずに、おかげを頂いたと言う訳で御座います。
はぁもう親先生の祈りのおかげで、親先生の御徳のおかげで、こういう一分一厘間違いのない働きを頂くというおかげを受けるという風に、皆さんも言うでしょう。又そういうおかげを、皆さんも頂いておられるでしょう。あれはねおかげを頂くのじゃない、お徳を頂くのです。もう親先生のそういう御徳の祈りというものを、受け止められるだけの物が出来ておるんです。だからそれはあなたの徳なのです。
それを知らないからその辺の所を、何時までもおかげと思うておるから、消えて行ってる訳です。またそれを育てようとも思わない。これが御徳だこれが御神徳だと。分からせて頂いたら、それこそこの御神徳と、はぁ私のような者でも御神徳が頂けておる。これが神徳だろうなと分かったらね。もうその神徳は、大事にしなければおられない。それを育てなければおられない。
その信心の喜びが、御神徳の言わば芽が出たのと同じですから。その芽を愈々大事に育てていかなければならんのです。その神徳を受けると言う事が。神様の願いであり私共の願いでもなからなければなりません。神徳は信心をすれば、誰にでも受ける事が出来ると仰るけれども。こればっかりは、沢山の金光様のご信者が居るけれども、御神徳を受けたと言う様な人達は、もう数えるだけしかいないと思うておった。皆んながおかげを受けておると言う事は、もう既に御神徳を受けておる事である。
それを御神徳であると、自覚が出来ていなかっただけである。御神徳を受けておるという自覚が出来る所に、それはもう育てなければおられないものであり。または育って行く事の楽しみが喜びがです。信心生活であります。言うならばです一分一厘間違いのない働きで、末永先生が、今日もあちらの御大祭を頂いて、それからその御説教を承ると言う事で御座いました。帰って来てから、恐らく万事万端の上にお都合お繰り合わせを頂いてと言うでしょう。それはもうあなたのものなのだ。
あなたの御徳だ。だからそれを愈々、是からも間違いのないおかげの頂けれる信心を、心を育てていくと言う事が、取りも直さず御神徳の芽を、愈々育って行くと言う事になるのですけれども。それを私共がおかげと思うから、それが消えて行く、また消してしまう。そして同じ所を堂々巡りをする。今朝からも皆さんに聞いて頂いた事でしたけれど。昨日そんな御理解を頂いた後に、久留米の佐田さん達が親子三人で、お婆ちゃん初め佐田さん達ご夫婦が、毎朝お届けになられます。
それで今日の御理解を頂いて、あなた方は本当に佐田の家の徳が着きよる。銘々がお徳を受けよるということを、あぁた方は感じておられるでしょうねと、私が申しました。これはもう佐田さんは、確かにそれを感じておられると思うたからそう言うた。そしたら三人ながらこう顔を見合わせて、にこっと笑いなさった。はぁ私は御神徳を頂きよりますとは、誰でも言いやしませんもんね。私でもそうです。私はあぁた、御神徳家ですよとは言わんでしょうが。とても不徳な者でありますとこう言うのです。
けれども、自分の心の中には、御神徳が蓄積されて行きよる。段々育って行きよると言う、その思いがあるからこそ、あのもうやんがて八十になられるお婆さんが、もうそれこそ、もうこっからここまでおいでるも、小走りしてから朝参って見えられますです。もう楽しゅうして有り難うして、これば頼まんならんけん、これば今日は願わにゃんけん参ると言った様なもんじゃないですもん。それは例えばほんなら、熊谷さん辺りでも、同じです。もうそれこそ八十近いお婆さんが、日に二回もお参りになると。
今日なんかは三回ですよ。必ず着きなさった時には、昼にまた一回お供えものを持って見えますから。三里の道を遠しともせずにとにかく、合楽通いが楽しゅうて応えんと言うのは、合楽に参ればおかげが受けられるからの楽しみではなくて、これこそ御神徳であろうと思うものを、日々感じておる。自分の周辺に人間の幸福の条件というものがあるならば、その条件の一つ一つが足ろうて行っておる事実をね。
感じる時にこれが御神徳であろう。これがあの世に持っていけるんだなという楽しみがあるからこそ、そういうお参りも出来るのです。佐田さんにおいてもしかりです。銘々の徳だけではない、佐田の家の徳が、これこそ佐田の家の御徳であろうというものを、実感しておられるからこそ、あのお参りが楽しゅうなって来る。だからもうほんなら合楽で、信心の稽古をなさっておられて、合楽通いが楽しゅうて、楽しゅうて堪らんという人は、もう必ず、お徳を受けておられるのです。
今朝から原さんが、昨日今日の御理解を頂いて、もうそれこそ涙ながらにお届けをしておられました。ささやかなまぁお徳ではありましょうけれども、今までは親先生のおかげで、こんなに間違いのないおかげをと思いよったけれども。金銭の上といい人間関係の上と言い、もう一切の事の上に言うならば、あぁ必要ならば必要なものが、必要に応じて頂けておると言う。ここ数年間のおかげの事を思うて、はぁこれが矢張り御神徳であったのか。この御神徳を今からまた。
愈々育てて行くと思うたら、もうそれこそ感動が湧いて来て涙を流さん、いやとめどもないほど、有難うなってくるというお届けで御座いました。だから合楽にはそういう方達が幾らもおありになる。だから本当は合楽で只今私が申しました様に、本当に神様の働きの一分一厘間違いのない事ですねという、おかげを受けておる人はもう既に御神徳を受けておるのだから。その御神徳を育てる事に一生懸命精進しなさいと言う事になるのです。そこの合楽食堂の長男の徹美さんが、この頃から事故をあの追突された。
そして向こうの車も、こちらの車も勿論、そでましたけれども。徹美さんが何日か前に帰って来てから、お母さん本当にあの、僕達のごたる考え方をする者が、世の中に増えていくなら、もう愈々世の中、こっとると言わん。もう世の中は平和であろうばってんねと言うて話した。と言うのはです。例えば追突されたならばね。例えば十万掛ったっちゃ、二十万かかったごつ言うちから、取ろうと言うのがそれこそアフリカ地区からでも取り上げようと言うのが今の世の中です。
それに反対にもう心配しなさんな。と言うて相手を慰めとるて。そういう例えば生き方がですよ。本当に世の中の全ての人達の上に出来る様になったら。本当に世の中は平和そのものであろうと私は思います。対立がなくなる問題が問題でなくなって来る。いいや問題が問題じゃない所じゃない。その問題そのものがより信心の有難さを深めていくということ以外にないのです。
又お母さんが先日から。近所におられるご親戚の方。もうそのもう言わば虫が好かんち言う人でしょうかねぇ。もう子供の時から、言うならばこういじめられて来たお年寄りがおられる。その人がもうそれこそ、もう本当にもう悔やみ回って先日見えた。所がその朝の御理解がたまたま。年寄りを大事にしろと言う事であった。そら大事にしようと思うばってん、あの爺さんばっかりは、大事にしゅうごつなか。もうあの婆さんばっかりは顔ば見ろうごつなかち言うごたるとが、やっぱ居りますよね。
それこそ何ち言うですかね。頑固爺ぃこんにゃく婆ぁち言うごたるとが、やっぱ居ります。もう灰汁で固めたごたっとが居る。所がその朝の御理解を頂くとです。そういう例えば、悪人の様な生き方をして来た人でも、天地の親神様が演出なさる、大きなドラマの中で、悪役を努めて来たのだと言う事で御座います。お芝居でも例え善人だけじゃ出来ん、悪人も居らなきゃ芝居にならん。世の中はそういうシステムになっとる。天地の親神様がです、演出なさる所のドラマの中の一役を。
悪役を承って来た人であるから大事にせろ。本当に勝負だと思うて、今日はこの御理解に取り組むぞと思うて帰らせて頂いたら、そのお爺さんが来なさった。今まではそれこそ面も見ろうごつなかったろばってん、そのお爺さんがなんか可愛ゆうして応えんごととあった。私は思いましたねぇ。信心の教えというものは、昨日今日の御理解で言うと、もう既に徳です。もうあん奴は好かん好かんと思うておるとがですね。もう途端に好きになっておる所にそれはもう、御神徳と言うより他にないです。
もう言うなら神の心です。いろいろ悔やみ話を聞いた後にですもうそげんあの悔やみ回らんな、毎晩夕方から出てこんのち。そすともう沢山な食堂ですから、あのお酒の一本ずつぐらいは、私が言うならばサービスしようまぁお肴は有り合わせでという訳ですがね。それから二三日毎晩夕方見える訳です。もう心も決まっとる今日はあれば出そうこれば飲もうち。今まではそげな心は全然起こらなかった。それにねそういう心が出来て来る、起きて来ると言う事は。
もう既にお徳を受けとるからそういう心になるのです。御徳を受けておるからそういう優しい心も、親切な心も言うなら神心が心の中に湧き起こって来るのです。ですからこの心を育て行くと言う事が、信心だと言う事なんですしかもね無尽蔵と限りなく頂いていける。あの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしの御神徳にさせて頂く事の為に。先ずは今日幹三郎が申しておりました様に、限りないものそれは天地の親神様の願いと、親の子供に対する愛情であろう。
これはもう何時までたっても普遍なもの。その言うならば親の思いとか、神様の願いというものに応えて生きようと言う事が、日に日に生きるが信心だと言う事。日に日に生きるが信心である。そういう信心の内容がです。愈々寛大な心になろう大きな心になろう。いわゆる宇宙の宇の字に草冠そして見る。一切をそういう見方聞き方をするのだと。そこにいやが上にも心は豊かに大きくなっていくであろうと言う事です。ましてや天地金乃神様のおかげを、お取次ぎ下さる所の。
金光大神のお取次ぎを頂いてそういう生活を、愈々身に付けて行こうと言う所に。限りない御神徳が頂かれ、限りない人間の幸福の条件の全てだけではなくて、あの世までにも持って行け、しかもこの世にも残しておけると言う様なおかげの頂けれる、言わばそういう道を私共は開いていかなければならない。それを私は昨日から人間誰しも良心がある、良心に背かない生き方。そういう道を、いよいよ選び取っていく生き方を身に着けていかなければならんと思うので御座います。
どうぞ。